胡蝶の夢は誰が見る。2話

胡蝶の夢は誰が見る。2話

 意識が深い沼から引き上げられる感覚がする。
 最初に感じたのは、まるでその場を勢いよく回ったかの様な不快感。そして、頬を優しく撫でる風だった。
「ん……」
 重い瞼をこじ開けると、助手席から僕を覗き込んでいる母さんがいた。
「大丈夫? 車酔いかしら。窓開けといたから」
 横の窓からゆるゆると入ってくる風を感じて視線を移すと、背の高い山々がそびえ立っていた。
「もうすぐ着くぞ」
 バックミラーから僕を見る親父と目が合う。
「事故は無かった?」
 突拍子もない事を親父に聞くと、眉を顰めた後に視線が外れて、ため息を溢すように答えた。
「もし事故なんてあったら、お前は涎を垂らしたままの間抜け面で永眠していたな」
 突然の指摘にハッとなった僕は、服の袖で口元を拭いて拗ねたように顔を横の景色に向ける。
 風と一緒に運ばれてくる自然の匂い。雨上がりの様な土、青臭い植物の匂いを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
 深呼吸をして、思考する。
 五感はある、生きてる。ならば夢だった、そう思うのが普通だろう。
 だけど、夢じゃなかった。
 そんな考えが何故か浮かんでしまう。
 深く考えても仕方ない。そう結論して、目覚ましに音楽を聴こうとイヤホンを耳に挿して、次々に流れる田舎の景色を楽しむ事にした。
 そうして一時間ほど経つと、車が停まった。
 扉を開けて外に出ると、古くさい屋敷が目に入る。
「近所に挨拶してくるから、荷物を部屋に運んでおけ」
 親父はそう言って、菓子折が詰まった袋を手に提げた母さんと歩いて行った。
「はぁ……。相変わらず、今にも崩れそうな家だな」
 ここは祖母が住んでいた家で、去年の葬式と同時に取り壊す予定だったが、親父が買い取って残したらしい。
 車のトランクから大量の荷物を居間に運んだ後、一息つく。
 冷やしておいた缶ジュースを一気に飲み干して窓の向こうの山を見ると、ふと思い出す。
「そういや、あの辺って遊び場にしていた川があったよな」
 久しぶりに行ってみようと、家を出て歩き出す。
 夏の日差しが眩しく肌を照りつけるが、都会と違って涼しく感じる。
「娯楽がほぼ無いから、快適って訳じゃないのが流石田舎だね」
 近くに物産館やスキー場がありゲーセンもある。
 だが、楽しめるのは観光客のみ。地元民は、すでに飽きているからな。
 一応は大型ショッピングモール、ジェスコがあるが……車で二時間ほどだ。
 そんな環境の中、僕は山や川が遊び場だった。
 改めて思うが、自然はいい。
 聞こえてくる川のせせらぎ、木の上から姿を見せる小動物達。
 自然のオーケストラを楽しみながら目的地の川に近づいて行くと、懐かしい気持ちになってくる。
 座りやすそうな大きな石に腰がけて、川を覗き込む。
 都会の川と違って、澄んだ川で小魚が群れで泳いでいるのが見える。
「子供の頃は、川に入ってはしゃいでいたけど流石に今は無理かな」
 大人になったから。とは違うんだろうけど、高校生になって水遊びが楽しいと思うのは無理がある。気恥ずかしさを苦笑で誤魔化した僕は靴を脱いだ。
 足を川につけて、雲一つない青空を見上げる。
「こんな穏やか気分、久しぶりだな」
 夏休みは始まったばかり。このまま、いい気分のまま過ごせたら――。
 ガサリ、と近くの茂みが揺れた。
「っ、誰だ!」
 突然の物音に驚いた僕は、飛び上がって気配のある方を睨み付ける。
 ……自然はいいと思っているが、危険が無い訳じゃない。
 例えば、熊。この山でも目撃されているけど、もっと深い場所のはずだ。
 だけどまさか、住処から降りてきたのかっ。
 視線を逸らさず、ゆっくりと足を引き、後ろに下がる。
 茂みを掻き分ける音が近づいてきて、緊張が高まり固唾を飲み込む。
 熊から走って逃げ切れる訳ないと分かっているが、足に力を入れて障害物を活かせる逃走ルートを脳内で組み立てる。
 ここは俺の遊び場、俺の庭だ。大丈夫、逃げ切れる。深呼吸をして恐怖を抑える。
 パキパキと小枝を踏み折って近づいてくる。段々と影が見えてきた。
 二足歩行。やはり熊かっ。
 この場から離れようと、右足を思い切り蹴りあげて――。
「あれ、男の子がいる。ヤッホー君だれ?」
 予想外の事に蹴りあげた右足は高く上がって、僕は後ろの川に背中から突っ込んでしまった。
「ちょ、大丈夫?」
 僕の方に駆け足で近づいてくる人影に目を向ける。
「立てる? はい、捕まって」
 川の中で尻もちをついている僕に手を差し出しているのは、女の子だった。
 はぁ……。夏休みは始まったばかり、だけど初日からこれかぁ。
 びしょ濡れな髪を鬱陶しく感じながら、差し出された手を握る。
 見上げると、派手に転んだ僕を案じているのか心配そうな顔だったが、全身を濡らして最悪な気分の僕の顔がおかしかったのか、女の子は笑い始めた。
「うんうん。水も滴るイイ男、だね!」
 思わず舌打ちしそうになった。チッ。
 しかし、どうやら今年の夏休みは最悪のスタートを切ったらしい。
***
 水浸しになったシャツを脱ぎ、日の当たりがいい岩場に置いて乾かす。
 ズボンも脱ぎたい所だが……。
「ひゃぁ、君は大胆だねー。ちらっ」
 手で顔を隠しているようで隠していない子が隣に居るので無理だ。
「ところでさ、君は? この辺じゃ見かけない子だけど」
 いつまでも正体不明な女の子にジロジロと見られ続けるのは僕の羞恥心が沸騰するので質問して意識を逸らす事にした。
「うーん、見かけないってのはコッチの台詞なんだけど。私はユキっていうの」
 ユキと名乗る女の子を改めて見ると、名前の通り雪が積もった様な白い髪をしている。
 身長は僕の肩位で童顔なのも加えて年下なのかと勝手に推測していると、ユキはジトリと此方を見ていた。
「私のこと見つめてないでさ、君の事知りたいんだけど?」
 気のせいか、視線が凄く冷たくて寒い。さてはコイツ雪女だな。
「……僕は去年までこの辺に住んでいたんだ。それで夏休みを使って里帰りしに来た」
「うんうん。で、君の名前は?」
「名乗るつもりはないぞ」
「なんでっ!?」
 まったく、怪しい奴に名乗ってはいけないと学校で習うだろうに。
 やれやれと肩を竦めていると、ユキは拗ねたのか口を尖らせて砂利を蹴っていた。
「むーん、何でよぉ。キミは意地悪だなぁ」
 しかし、さっきも思ったがユキは今まで見かけなかった女の子だ。
 僕と入れ違うように引っ越してきたのか?
「なぁ、ユキはいつ頃――っておい」
 いつ超してきたのか聞こうと、シャツの乾き具合を見ながらユキに質問するが、いつの間にか川に入って遊んでいた。
「おぉっ、ちっちゃい魚が一杯いるぅ」
 着ている白いワンピースを濡れないよう太もも辺りで綺麗に折っていて非常に目に毒だ。
 川ではしゃぐ姿は肩口で切り揃えられた短い髪が相まって活発な印象を与える。
 なるほど、僕の苦手なタイプだ。
 これ以上絡まれないために、生乾きのシャツを持ってこっそりとフェードアウトしよ。
「あれ、どこ行くの」
 コイツいつの間にっ。
「いやー。服も乾いたし、そろそろ帰ろうかと」
 そう言い訳するが、ユキは僕の腕を掴むと引っ張って走り出す。
「まだ日は高いしもうちょい遊んでこうよっ」
「ちょっ、まっ」
 グングンと引きずられて、思わず砂利に足を取られそうになる。
「わかったっ、遊んでやるから引っ張らないでくれっ」
「ほんと!?」
 仕方なく、もう少しだけ付き合ってやろうと目の前の暴走機関車に叫び伝える。
 自分の提案を受け入れて嬉しいのか、ユキは振り返ると目が眩む程に煌びやかな笑顔を見せてきた。
 その笑顔は、何故だか僕の体温を著しく上昇させていく。
 だが、急に足を止めて振り返るという事は……。
「「あっ」」
 僕達の口から一瞬の空気が漏れ出したつかの間、二人の体は衝突した。
 ドボン、と川の水が高く上がる。せっかく乾いてきた服も、またびしょ濡れだ。
 しかし今回は目の前の、端から見たら僕が押し倒した様に見える、ユキも濡れていた。
 びしょ濡れのワンピースは、白色なせいか少し透けて見える。
 ……なんか卑猥な感じがして思考が鈍くなったのか、
「水も滴るイイ女、か?」
 こんな事を言ってしまった僕を誰が責められようか。
「フ、フフフ」
 気まずくなって目を逸らしていると、ユキは不穏な声を漏らしだした。
「このーっ、よくもやったなぁっ」
 ユキは片手で水を掬って思い切り僕にかけてきた。
「わぶっ。やめっぶふぉっ」
 立ち上がり、僕にどんどん水をかけてくる姿は実に楽しそうだ。
 それはなんだか昔の僕の姿と重なった気がして、懐かしくなる。
「ぶふっ、いい加減、にっ、しろっ」
 僕も負けじと足で蹴るように水を飛ばす。
「うわぁっ、それは反則でしょ!」
 こんな今時の小学生でもやらない水かけっこを、高校生である僕が全力でやっている。
 きっと後で、この熱が冷めたら僕は何をと頭を抱えるだろう。
 でも、まぁ。たまにはいいかと、僕はそう思った。