胡蝶の夢は誰が見る。1話

胡蝶の夢は誰が見る。1話

 ガラス一枚、窓の向こう。蝉がけたたましく鳴いている。
 夏が本格的に始まって、教室の中で下敷きを団扇代わりに扇いでいる生徒がちらほら視界に映る。
 今日は終業式で、夏休み前日。
「以上、注意事項を守って学生らしく過ごすようにな。では日直」
 担任の話が終わり、日直の号令の後で教室が騒がしくなる。
 まだ残って夏休みの計画を立てる奴などいるが、僕はすぐ帰るためにサッサと鞄を持って教室を出る。
 別に友達が居ないわけじゃない。
 ただ、休日を一緒に遊ぶような親しい友達が居ないだけだ。
 クラスの立ち位置はトップでもないがワーストでもない、真ん中だ。
 つまり空気。
 それは学校で平穏に過ごすには最適な位置だ。
 人気者になれば、沢山の友人に囲まれて幸せな青春を過ごせるだろう。
 だが、友人が多くなれば問題の種も多くなる。
 友人の友人のトラブルが飛び火したり、男女の縺れなどに巻き込まれる。まったく、碌なもんじゃない。
 かといって、大人しく何もせずに最下層に甘んじているとそれだけで問題になる。
 イジメとかな。本当に碌なもんじゃあない。
 程々な交友関係が一番だ。空気が一番だ。
 そんな腐った持論を頭の中で繰り広げていると、下駄箱に到着した。
 靴を取り出しながら校門の方を見ると、夏休みでテンションが上がっているのか複数人の生徒が騒いで盛り上がっていた。
 蝉の鳴き声との掛け算で、気温が更に上昇した感じがして頭が痛くなってきた。
 あの軍勢を通り抜けるのは精神的な負担が大きそうだ。
 反対側の門から帰ろう。あっちは通る生徒が少ないしな。
 靴を履いて、校舎をグルリと半周して目的地まで歩く。
 こっちの門は生徒が少ないと言ったが、理由がある。
 別に登下校する人が少ない、という事じゃない。
 門の近くには校舎の物陰があり、外側からは中は見えない。
 そうなると当然、悪用する生徒がいる。 
 隠れて煙草をを吸ったり、恋人との逢引きなど――。
「なぁ、早く出せよ。もう一枚くらいあんだろ?」
「も、もう止めてくれ……。これは参考書を買うのに必要なんだ」
 ……もちろん、こんな事も起きる。
「ちっ。うっせえなぁ」
 何か叩きつけられた音が響いた後に、その物陰からは啜り泣く声が聞こえてくる。
 別に助けようとか、無謀な事は考えない。
 学校生活を平穏に、平和に過ごしたいなら、見なかったふりをするのが一番だ。
 ただ、気分が悪くなる。それと引き換えに自分の安全が手に入る。
 そう考えて、門を通り抜ける。
 しかし、自分の安全が保証されたなら、その限りではないと思う。
 僕は、拾った小石を物陰の近くに投げつけた。
「うおっ、センコーかっ? 少ないがこれで勘弁してやる」
 そんな焦り声を背中越しに聞きながら、学校を出て帰路につく。
***
 家に帰ると、なにやら騒がしかった。
「帰ったか、今夜だから早く準備しとけよ」
 玄関で靴を脱いでいると、リビングから頭にタオルを巻いた親父が出てきてそう言った。
「あぁ、今日からだっけ。わかった」
 僕はそう伝えて、二階の自室に向かって階段を登る。
 三年前に僕達、家族は東京に引っ越して来た。
 そして今年の夏に故郷である新潟県に里帰りしようと話していた。
 僕は最初、留守番でいいと言ったのだが、去年逝ってしまった祖母の墓参りも兼ねていると両親に言われて、行く事になった。
「といっても、別にたいして持ってく物なんて無いしな」
 日用品など最低限の物だけボストンバッグに詰めて、出発の時間まで仮眠をしようとベッドの上で横になり、目を閉じる。
 本当は何があっても里帰りなんてしたくなかった。
 けれど、祖母には世話になった為に一度くらいは顔を出さないと罰当たりかと思った。
 暗く憂鬱な気分のまま寝返りを繰り返していると、徐々に意識が遠くなってきた。
『この偽善者がっ』
『なんでもっと早く――」
『前から気に入らないと思ってたんだよ』
 ――今度は、お前の番だ。
「はっ、っ。……はぁ、くそったれが」
 いつの間にか深く眠っていたようだ。
 横の時計をチラリと見ると、もうすぐ家を出る時間に迫っていた。
 出発は夜の十一時、朝には新潟に着くと言っていた。
「あら、起きた? お父さんはもう車で待ってるわ」
 様子を見に来たであろう母さんは、静かに扉を開けてそう言った。
「……もし、やっぱり無理ってなら留守番でもいいのよ?」
「平気、大丈夫だよ」
 そう伝えると、母さんは一瞬心配そうな顔を浮かべるが、直ぐに微笑みに変えて部屋を出た。
 二十日間。夏休みの大半を故郷で過ごす事になるが、いつまでもこんな気分だと両親を心配させてしまう。
 切り替える為に、弾む様な曲を鼻歌交じりに荷物を持って玄関に向かう。
 家を出ると、目の前に車が停まっていて両親がその中で待っていた。
「遅かったな。……何してる、早く乗れ」
「分かってるっての」
 気のせいか、あまり笑わない親父が口角を上げて僕を見ていたので立ち止まってしまった。
 急かされたのでサッサと後部座席に乗ると、車は発進して深夜の街を走る。
 時間帯のせいか対向車も、この車を追い越す自動車も無い。
 静寂の中、黒いカーテンを破る様に真っ白なビームライトを突き刺して進む。
 聞こえる音は、唸るようなエンジンだけ。
 世界一長いと言われるトンネルを進んでいき、ふと窓を見る。
 照らされてるライトが次々と流れて、残像で一本線の光に見えてくる。
 そんな感じで、眠気も無い僕は暇を持て余していた。
 カーブに差し掛かった所で、もう一度寝ようと目を閉じる瞬間、前方から白い光が飛び込んできた。
 対向車だ。しかし、反対側の車線では無い。
 そう、突っ込んでくる。
 母さんは悲鳴を上げて、親父は焦った顔でハンドルを切った。
 でも間に合わない。
 僕は衝撃に備えて、体を低くして頭を手で覆う。
 車はもう目の前に迫っていた。
 向こうの眩しいヘッドライトに目を潰されて、次の瞬間――。